KONISHIのコーポレートミッションである、「明日を、動かす。」
この言葉に想いを乗せて、未来に向けて挑戦している社員一人ひとりを紹介する企画が、「明日を、動かす人たち」です。
今回紹介するのは、2022年に新卒で入社し、現在は新規事業部にて活動している長谷川 潤。
大学時代に箱根駅伝を走るなど、学生スポーツの第一線で活躍した後、企業への就職を決断。右も左もわからない中で“海外”というキーワードで商社であるコニシ産業を選んだ彼は、現在はどんなことを感じ、どのように仕事に向き合い、未来にどんな展望を抱いているのか……長谷川の等身大のストーリーをぜひご覧ください。
箱根駅伝への憧れからはじまった陸上競技人生
私は、新規事業部にて船舶関連の部品の営業を担当しています。新卒で入社して1年ほどで今の部署に挑戦することになりましたが、それには二つの理由がありました。一つは、誰とでもフレンドリーに話せる性格なので、会社の新しい挑戦をするメンバーに向いているのではと上司が考えてくれたこと。もう一つは、社会人生活に慣れず、燻って(くすぶって)いたので心機一転というタイミングでした。
では、なぜ燻っていたのか? それは、私の今まで歩んできた幼少期から学生時代までの影響が大きいです。
私は長野県大町市に生まれ、小学3年生の頃に陸上競技をはじめました。きっかけはお正月にTVで見た箱根駅伝です。走っている選手たちがすごくかっこよくて「これ、僕も絶対に出る!」と家族の前で言ったところから競技人生がスタートしました。
最初から走るのが得意だったかと言えば全くで、初めて出た地元の大会では最下位でした。それでも、練習すればするだけタイムが伸びる時期だったので、陸上がどんどん楽しくなっていき、中学3年生の頃に急成長したのを覚えています。それまでは、部活内の順位でも下の方だったのが、周りに負けたくないと猛練習した結果、長野県の大会で県4位になり、高校駅伝の強豪校に入ることができたのです。
高校も地元長野県でしたが環境は一変。周りは速い選手ばかりで、「お前らとはレベルが違う」なんてことを言う人もいて、今まで自己流で練習してきた私は面を食らいました。それでも、反骨精神を発揮しきつい練習や寮生活を経て、やっと結果が出たのは高3の時。全国選抜大会で2位を記録し、推薦枠で国士舘大学に入ることができたのです。
大学は夢にまで見た箱根駅伝の舞台。当時は楽しみより、プレッシャーの方が大きかったですね。個性が強いメンバーが全国から集まっていたこと、箱根駅伝を経験したOBの方々も期待をかけてくれたこと、練習メニューを渡されてあとは本人に任せる自由なスタイルだったことなど、自ら道を開拓し結果のみが求められる環境でした。しかし、私自身は焦りからか夏休みの合宿で疲労骨折を患うなど、思うようにはいかず、挫折に近い感情を味わいました。
それでも、怪我から復帰したあと誰よりも練習したことでタイムが上がり、1年次に箱根駅伝の7区に選ばれました。自分でもまさか夢の舞台に1年目で出られるとは思っていなかったので驚きましたが、大会本番では力を存分に発揮できなかった悔しさの方が大きかったです。続く2年次にも選手として選ばれ、これからはエースだと期待をかけられ気負った影響もあったかもしれません。3、4年時はメンバーに入ったけど、調子を落とし走ることができず、私の夢への挑戦がここで終わります。その後、実業団で競技を続ける選択肢もありましたが、陸上とは違った場所で結果を残していきたいという想いが次第に強くなっていきました。
ここまでが陸上競技をはじめてから大学で選手人生に見切りをつけ、企業に就職する決断に至った、コニシ産業に出会う前の私の歩みです。
挫折から心機一転、新たな環境へ
今まで走ることしかしてこなかった。そう言っても過言ではない私にとって、就職活動はまさに新たな人生のスタートでした。何ができるかわからない。けど、新しいことをやってみたいという軸で行動した結果、出てきたキーワードは“海外”でした。実は当時はまだ海外に旅行でも行ったことがなかったのですが、その分だけ興味があり、さらに仕事で行くことができれば成長スピードが速いのでは!?と思ったのです。陸上競技を選手としてはあきらめても、社会人として同世代の人に負けたくないといった感情があったのかもしれません。
しかし、海外に関われる仕事が何かも当時は想像がつきませんでした。コニシ産業に応募したのも、就職を支援する方から商社を勧められたからですが、どんな事業なのか、どんな会社なのかはほとんどわかっていませんでした。唯一、営業職のイメージがついたので、海外で仕事をする経験が積めるかもしれないという理由で入社を決断したのが正直なところです。
だからこそ、入社してから最初の数ヶ月は地に足がついていませんでした。弊社はお客様と信頼関係を一つひとつ構築し、長い時間をかけて営業活動をするスタイルが特徴の商社なので、すぐに結果が出ないし、当時はコロナ禍の影響ですぐに海外にも行けない「このままでいいのか……」と自問自答する日々が続いたからです。
今自分で振り返ってみても、当時は覇気がなかったと思います(笑)。もちろん、上司もその雰囲気を察してくれたのでしょう。新しくできた部署に挑戦してみないかというアドバイスをいただき、会社内でも立ち上がったばかりの新規事業部に異動することになりました。
取引先や働き方スタイルが変わったことで心機一転できただけではなく、部署の人数が少ないので上司との距離がより近くなり、アドバイスをいただくことも多くなりました。
例えば、上司からの指摘で「優しくなりすぎるな。お客様やメーカーの担当者相手でも、自分が違うと思ったことは発言しろ」と言われました。自分の性格上、その場の雰囲気を壊さないように笑ってやり過ごす(誤魔化す)ことが多かったので、とても印象的なアドバイスでした。そして、そうならないためにも知識が武器になるので、今はわからないことを勉強したり、上司に聞いたり、どうしたらいいのか自分で考えたりするようになりました。
あと、入社当初に目標としていた海外へも2年目で3回出張にて行くことができました。中国や台湾など、日本との距離は近くても街の雰囲気や人の考え方、仕事の方法も違う点がとても面白く、また共通して現地の人はとてもフレンドリーに接してくれました。今後は海外に行くことは目的ではなく手段であり、自分は何ができるのかを明確にして行けるようになりたいと思っています。
結果がすぐに出なくても、走り続ける大切さ
これからの目標は、まずは結果を残すことです。社内外の皆さんから認められる社会人になるには、人格と成果が必要だと思っているからです。
学生の頃から、一つの大会で成果が出なくても、次があるから練習しようと切り替えられるマインドを持っており、周りからポジティブだと言われることが多くありました。私自身でもそう思います。このマインドは自分の武器として持ちながらも、仕事を通じて知識や経験を磨いていくことで道は拓けていくし、企業理念でもある「明日を、動かす。」を体現できるのかなと思っています。
最後に、自分は会社ではまだ若手の立ち位置ですが、これからコニシ産業に入る方へアドバイスを送るとしたら……人が優しい会社であること、自ら学ぶ姿勢があればきっと成長できる会社であることを伝えたいですね。私のように経験の浅い人にも気を遣って細かくフォローしてくれたり、早くから海外出張などの貴重な経験を積ませてくれたり、落ち込んでいる時は声をかけてくれたり、といったところは優しさに繋がる部分です。自分のようなタイプにはもっとガツガツ指導してくれてもいいかもしれませんが(笑)会社の環境は恵まれているので、ぜひここで一緒に成長していきましょう。